転職した
去年の終わりに転職した。
自分の希望にかなり近い状態に身を置くことができた。
今の忙しさに心地よさはある。でも、しっくりきていない。
転職活動中に思い描いていたほど、自分は自分の人生を楽しめていない気がする。もっと楽しめる気がする。
楽しくなるように考えていきたい。
とりあえず、仕事のことはゲームだと思うことにした。
今取り組んでいるタスクは少し時間がかかっている。いわゆるボス戦みたいなものだ。
今の会社に入ってから、マネジメント的な業務とプレイヤー的な業務の両方を回すことを求められるようになった。
これはゲームでいうと、何だろう。
ギルド運営みたいなものなのかもしれない。
このゲームの目的は何だろう?
最近それが分からない。今の状態に満足してしまったら、ゲームをプレイする意味はあんまり無い。いまはそんな状態な気がする。
自分の満たされていない所はどこなんだろう。自分が満たしたいものはなんなんだろう。
ゲームみたいに、ストーリーやクエストを誰かに決めてもらえて、それに対して自分自身が興味を持って前に進めていくような体制が、自分としては一番楽な気がする。
なんにもわからん。
とりあえず、何かを作っている時は割と満たされているような感覚があるかもしれない。
何かを作った、ということを記録したら、自動的にレベルが1上がっていくとしたらどうだろう。
今年初めての記事を書いた。+1
久しぶりにパンを焼いた。+1
推しのクリアファイルを飾るために額縁のマットを削った。+1
音ゲーで良いスコアを出してランキング100位以内に入った。1
副業の契約書を記載した。+1
今のレベルは5
だってさ。
13.3対23
昨日、色々あって自分の開発環境がデュアルディスプレイからトリプルディスプレイへと進化した。
ノートPCのメインディスプレイである1つ目と、その横に並べられた2つ目のモバイルモニタは13.3インチ。
その横に、別の部屋でゲームをするために使っていた、23インチのディスプレイを召喚した。
そこで初めて気づいたのだけど、23インチのディスプレイというのは結構大きい。
今まで13.3インチのディスプレイで特に不便を感じていなかったし、視界に収めやすいサイズ感で比較的使いやすいと思っていた。
一方で23インチのディスプレイは、今使っているデスクの奥行きで正面に置くには、少し大きすぎると感じる。
具体的に言えば、13.3インチの全画面表示が、23インチの4分の1サイズの表示と、さほど変わらない大きさに見える。
厳密には2周りくらいは違うんだけど、それでも 約4分の1
という大きさの比率に、衝撃を受けてしまった。
大きから使いやすい、小さいから使いにくい、という訳ではなく、結局のところはどう使うか次第ではあるけど、この大きめのディスプレイをうまく使いこなせれば、自分の人生が少しだけ上向いてくれるような、そんな予感がした。
勉強を、もっと楽しみたい
最近、毎日、少しずつ、継続して勉強できるようになってきた。
ただ、正直今の自分がやっているのは必要に駆られた勉強であって、楽しいからやっている状態にまではなっていない。
自分の中の「楽しめる方向」と「やった方が良さそうな方向」を、どれだけ近づけられるか、どれだけ多くの共通点を見いだせるか。
もしくは、どうすれば勉強の中に新しい楽しみを見つけられるか。
せっかく続くようにはなってきたのだから、どうせならもっと楽しく、もっと速く前に進みたい。
勉強を、もっと楽しみたい。
楽しむ方法を考えながら、勉強を続けてみるしかない。
感想を書く時に避けたい言葉
推しのコンサートに参加した結果、良すぎて死んで帰ってきてしまった。
勢いで感想を書くことができたし、ラジオにもおたよりを送った。
1文字でも、雰囲気だけでも、届けば嬉しいなぁ。
で、色々自分の感想を言葉にしようとして思ったことなんだけど、意識して避けているいくつかの表現がある。
それは掘り下げが足りない系の言葉で、例えば「エモさを感じた」とか「ヤバかった」とか「言葉にできない」とか、そういうやつである。
「言葉にできない」というのは言葉にするのを諦めた感じがするから使いたくないし、エモいという言葉ももう少し具体的な表現に落としたい気持ちになる。ただ、脳内にパッと浮かんでくるのはこの言葉だったりするから調整がなかなか難しい。
仮に自分が「エモい」と感じた場合、それは掘り下げられる感覚なのか、それともその曖昧な状態こそが自分の本当に感じている感覚なのか、それは自分にはよく分からない。
ただ、「エモい」よりももっと範囲を狭めた言葉で表現できれば、それに越したことは無いと思う。広すぎると、結局「どうエモいのか」が分からないままになってしまうためである。
もう少し出せる言葉を増やしたいなと、感想を書く度に思っているような気がする。
習慣化に失敗したので、再挑戦する
この記事で書いていた習慣づけについて、9月の中頃までは上手く行っていたのだけど、色々あって一度途切れてからはもう見向きもしなくなってしまった。
仕事で使っているPCディスプレイの上に付箋を貼って、毎日必ず目にするようにしているにもかかわらず、だ。
これらの結果から、自分の習慣化において 目に見えるところに書き出す
というのは、忘れないようにするための方法としては使えるけど、自分の行動を強制するのには使えないということが分かった。
ここで また続けられなかった
と捉えるのか 今回の方法では自分は続けられないのだな
と捉えるのかは大きな違いに繋がる、はずである。
今回は意図的に後者を選択することにした。一度失敗しただけで自分を貶すことに価値は無いし、そもそも3週間は大体続いていたのだから結構偉いのだ。
俺は偉い。
だから、次に何を継続しようかと考えている。
1つは 1日5分の勉強を5回やる
にするつもりだ。数字は適当だけど、毎日長時間まとまった時間を取ろうとすると結構挫折しがちなので、短い時間を設定する。その上で回数を増やすことによって、空いた時間に勉強しようとする行動自体を習慣化できないかなと考えている。
そして今までなんとなく3つのやることを設定しようとしていたけど、そもそもそれが間違いだったような気がする。自分にとって大事なことは常に1つであるべきだ。だから今回はこの習慣化一本に絞って進めてみることにする。
つまり、そういうことだ。
同じ情報を、異なる人間が、何度も発信すること
本を読んでいたり、ネットの記事を読んでいたり、SNSを見ていたりすると、「こんなのずっと前から同じこと言われてるだろ、何を今更、新しく発見したみたいな言い方してんだ?」と思うことが少なからずあるし、そういう発言をする人を見ることもままある。
実際それはその通りで、世の中には完全に新しい事実なんて大して存在していなくて、殆どの物が既存の組み合わせから生まれるのだから、言ってしまえはほぼ全てが当たり前の延長にある。
じゃあ、それらの情報が世に出ることが無駄なのかというと、そんなことは絶対に無い。
そもそも、人がわざわざ発信する情報の多くは「自分にとって有益な情報だったこと」である。
これにもっと多くのラベルを付けるなら「今の
自分にとって必要だった」「これまで自分が
知らなかった」「今日、この時の自分の置かれた状況では
有益だった」と言うことができるかもしれない。
つまり「情報という絶対値」が重要なのではなく「今この時、この情報に触れることができた」という、言わば相対的な状況が大事なのだと考えることができる。
立ち戻って考えると、世の中には「多くの人にとって有益だけど、全人類には行き渡っていない情報」や「昔はよく言われていたけど、最近は言われなくなった言葉」が沢山ある。
考えてみれば当たり前の話で、今世界では1日に40万人くらいが生まれ、それらの人間が育っていく中で触れられる情報には限りがある。そして誰にとって、何が重要になり得るのか予測することは基本的に出来ないものだ。
そんな中で、様々な「有益であろう情報」がより多くの人の目に触れるように流れていく過程において、たまたま既に自分が知っている情報、何度も見聞きして自分の中では「当たり前」になっている情報が、別の人にとって「今まで知らず、今知ることができて良かった」となる可能性は大いにある。
だから冒頭のような「何を今更」という感覚は、あくまで自分にとっては今更感があるなというだけの話であり、むしろ自分にとって有用だったのであれば他者にとっても有用になる可能性があるのだから、世に出回る数が増えることは喜ばしい事のような気がする。
ちょっと違う話かもしれないが、IT系の記事で「今さら聞けない!◯◯の使い方」みたいなタイトルを見ると「うるせーいちいち煽る必要ないだろ、人生に今更なんて存在しねーんだよ」というよく分からない反発感みたいなものが自分の中に生まれるのを楽しみながら日々を生きております。
終
気が抜けた
気を抜くとすぐに更新をサボってしまう。
毎日書く、というような習慣にはしていないので、当たり前といえば当たり前である。
ここ2週間ほどは私生活が色々とドタバタしていて、やっと一旦少しだけ落ち着かせることができた。
そういうタイミングで、ちゃんと戻って来られているのは良いことかもしれない。
今は35歳で、40になるまでもう少しな感覚なので、この5年を大事にしたいなと思っている。
やれるだけの事をやろう。 自分にとって、本当に大事だと思えることを、ちゃんと自分の意志で選択できるようにしよう。